木曽には大宝2年(702年)に岐蘇山道が引かれ、美濃の国に属していました。一方、隣国の信濃は木曽が国府松本に近いことから領有権を主張しました。境界をめぐって紛争が起きたため、中央政府が国境検察使を派遣。鉢盛山の分水嶺を境界として、木曽の一帯が美濃の国に属すとの判決を元慶3年(879年)に下したと記録に残っているそうです。これが最初の「山論」として、歴史に刻まれました。
この頃の林業は、木材を各地でまかなえる状態でした。そのため、特に重要な用材を必要とする伊勢神宮、円覚寺、銀閣寺などの建築物以外では、木曽の山林から木材を切り出すことはありませんでした。また、木曽は産出に不便な場所にあり、これが森林の保護につながっていたようです。
そして豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、木曽一帯を蔵入地として直轄支配しました。これは戦乱の収まった世に城下を造営するための準備で、木曽川、飛騨川を利用した運材ルートを確保していました。この頃の木曽木材は、聚楽第や伏見城の造営に使われました。
1600年、関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、翌月早くも木曽を支配し、山村道祐を代官に据えて木曽一帯を尾張藩に加封しました。このときの尾張藩主は家康の第9子・徳川義直でした。しかし、この後江戸城の大改修・名古屋城の造営が開始され、それまで手厚く残されていた木曽の山林は大々的に伐採され、衰退してしまったのです。そこで尾張藩では、寛文5年(1665年)に大改革を断行。残された美林地区を留山(とめやま)とし、次いで木曽五木として知られる木々に停止木(ちょうじぼく)の指定を設け、ひのきをはじめとする森林の保護育成を進めました。この制度の厳しさは、「ひのき1本首ひとつ」という言葉にも残されるほどで、現在見られる赤沢の木々は、この頃芽を出したものが多いと思われます。
時は明治に移り、長野県の管轄に収まった木曽の森林は、ほぼすべてが官有林に編入されました。明治22年の記録によると、反別55万町歩が御料林とされていたそうです。この時、管理は宮内省御料局が行うものとなりましたが、戦後の皇室財産解体令によって国有林に移管され、現在に至っています。
| 参考文献:信教出版部刊「木曽 ―歴史と民族を訪ねて―」 |
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